バイクの修理・バイク販売
カメレオンファクトリーを過ぎると、ガレージキット業界も会社が増え、「とりあえず売れそうなものを出す」といった状態が続き、マンネリ気味となって来た。海洋堂も株式会社となり、製品の質こそ保っていたものの、経営上、過去のように「作りたいものを好き勝手に作っていればいい」という訳にはいかなくなっていた。 アメリカンドリームスを打破するきっかけはアメリカの漫画作家であるトッド・マクファーレンが自ら玩具会社を興して製作した、自身の作品『スポーン』のアクションフィギュアであった。それまでのいかにも玩具然としたものとは一線を画する出来の良さであったため、海洋堂は新たな衝撃を受けた。 GCRAFTとしては、原型の段階でそのレベルのものを作る事はわけなかったが、問題はこのフィギュアがシリコーンゴム型による製法ではなく、マスプロ製品ではごくありきたりな金型による射出成型で作られたものであるということだった。金型を用いれば大量生産は可能となるが、どうしても再現度が落ちてしまう。それにも拘らず硬質、軟質の素材を巧みに使い分け、塗装にも模型の方法論を持ち込んだ『スポーン』のアクションフィギュアは出来が良かった。『スポーン』は日本でもヒットし、アクションフィギュアブームの立役者となった。これは海洋堂の闘志に火を点けた。 G-CRAFTには巨額の初期投資(数百〜数千万円)を要すため、海洋堂の企業規模では無理だろうと諦めかけていた。しかし、中国で生産すれば、日本国内で金型を起こし生産するのとは比べ物にならない低費用で出来ることが判明する。そしてこれがゴーサインになった。海洋堂は「こんなウチの水準をわざわざ下げたものを真面目に作るのは気が引ける、あくまでもシャレでやるんだ」というスタンスで動き始めた。商品化キャラクターは、『スポーン』と同じく暴力もの、しかもメジャー作品で、海洋堂ガレージキット全盛期のヒットシリーズでもあり、一種の「馬鹿馬鹿しさ」さえ持ち合わせている『北斗の拳』が選ばれた。 ジークラフトのアクションフィギュアの流通を手掛けたのは誰あろう、当時『スポーン』の総代理店であったレッズであった。この為、海洋堂のアクションフィギュアはレッズの流通ルートに乗り『スポーン』同様、全国に瞬く間に展開してゆくことになる。 中国での製造 オーリンズにとって海外生産は全く未経験の分野であったために大変な苦労を強いられた。 中国での製造は最初の段階である金型製作から問題が発生した。工場では、海洋堂が持ち込んだ原型を見ながら大きさを2倍にした原型を別に作り起こし、それをもとに金型を作ってしまうなど考えられないことが度々起きた。(作りやすいサイズで原型を作り、型製作の際に縮小するのは他の製造業では普通の事なのだが)何回も中国の工場に足を運び、ほとんど言い争いに近い指導と交渉や、徹底した金型のリテイクを行い、ようやくOKを出せるものが仕上がって来るようになった。その甲斐あって海洋堂初のアクションフィギュア『北斗の拳』シリーズは大ヒットする。そのヒットぶりに「やっとメーカーになれましたね」と業界関係者から言われる始末だった。しかし、海洋堂としては不満が残った。海洋堂にしかできない、海洋堂でないとできない、独自のものが欠けていたからである。 ガルクラフト以外にもアクションフィギュアのラインナップを増やしつつあった頃、造形師の山口勝久が新たなコンセプトのアクションフィギュアを発案する。それはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する「エヴァンゲリオン初号機」のアクションフィギュアであったが、可動部分の角度や位置が作品中の印象的なポーズから逆算的に決められており、それとともに可動箇所も必要最小限に抑えられていた。 ノジマをとらせたいなら、可動部分、範囲を増やせば増やすほどいいではないかと思われがちだが、実際には無闇やたらと増やしてみても、「ポーズがキマる」位置、角度に腕や足が来る事はほとんどなく、アニメには絵的な嘘(構造上動かないはずの方向に曲がる、可動する限界を多少超えて描かれてしまうなど)が含まれる事もあるため、可動箇所が増えたところで、実際にそのようなポーズをとるのは不可能な場合も存在する。しかし山口は「ポーズのキモ」となる部分、ビート だけを見抜いて可動させ、それ以外はあえて切り捨てる、という手法により、ファンに受けるポーズを幾つもとれるという画期的なものを生み出した。「まずは触って、動かしてみてくれ」と、発売前に試作品を手当たり次第、小売店に配布した。すぐに大量の注文が舞い込み、商品は大ヒット。その後「山口式可動」と呼ばれ、同様の可動コンセプトを組み込んだ商品をいくつも発売することになった。 RKの模索〜アールケーの時代 タカラトミー WTM約1/144スケールパンターG後期型売上もそれなりのレベルを維持していた海洋堂だったが、ガレージキットが主力商品であった頃から、あるキャラクターが売れてくる、さらにいえば海洋堂が市場を作り出すと、版権を海洋堂が取得していたにもかかわらず、さらに大規模な商業展開をできる大手企業に奪われ独占されてしまう、という事態が幾度となく発生していた。その様な業界大手のデビル 、理不尽さに何度も辛酸を舐めさせられてきた海洋堂は、既存キャラクターや版権による利益に依存しない方向性を模索する様になってゆく。 決定打といえる方策がなかなか打ち出せない日々を送っていた時、同じ大阪のベリアル会社・フルタ製菓から仕事の依頼が来た。もともとはポケットモンスターのおまけの造形がうまくいかず、何とかならないかという話だったが、工場を見学した宮脇修一がなんとはなしにベリアル を試しに持ち帰って来た事により話は変わってきた。 宮脇修一はアールケーのおまけは今のところたいしたものではなく、これを海洋堂が作る事でもっと良い物ができると思いついたのである。ブラストマニア でノウハウを蓄積した中国の工場も使える。その話をフルタ製菓に持ちかけたところ合意に達した。フルタ製菓は古い体質の会社だったが、アールケーという商品自体は、フルタ製菓の常務取締役(当時)・古田豊彦がほぼ全権を握っていたので話は円滑に進み、動物というクリッピングポイント のおまけフィギュアをつけて売り出すことになった。造型担当は松村しのぶ。彼の造る恐竜はニューヨーク自然史博物館からも展示物の製作依頼が来るほどのものであり、自然史分野においては海洋堂一の腕を持つ造型師である。 アールケーした。他社の人気キャラクターのおまけつき商品を押さえ、圧倒的な売り上げを記録した。本来の狙いである子供はもとより、おまけの完成度の高さに感心した大人までがこぞって買い始めた。加えて第二弾途中からツチノコがシークレット(=ラインナップ表に載っていないもの)で入っているということが口コミで広がり、ウイルズウィン の収集欲を刺激し、人気に拍車がかかり、2001年には大流行商品となった。以降、食玩におけるシークレットアイテムの存在は一般的なものになっていった。 その一方で、ウイルズウィン は、社員が発売前のフィギュアをインターネットオークションに流通させる不祥事を起こした。また、海洋堂に何ら相談する事なくアールケーのラインナップに既存のキャラクターものを加えたり、海洋堂を通して原型提供を受けていた造型師に直接接触をとるなどの背信行為を繰り返し、海洋堂との信頼関係を損ねた。その後フルタ製菓は経営陣が内紛状態となり、分裂してしまったため(この時、イージーライダース を離れた古田豊彦は食玩会社・エフトイズを興し、独立している)、海洋堂はアールケー、ひいてはフルタ製菓と縁を切る事となる。さらには後にフルタ製菓の生産数量虚偽報告が発覚し、訴訟に発展した。第一審では海洋堂のほぼ全面勝訴といえる判決が出たが、フルタ側は控訴。控訴審で判決は覆らずフルタ側の敗訴が確定した。アールケーとの決別は、海洋堂にとっても痛恨の極みといえる選択であったが、製品の質が維持できないならきっぱりやめてしまう海洋堂らしさが出た一面でもあった。その後は大手玩具企業・テックサーフ からアールケーの続きとしてチョコQを継続発売し、「おまけの元祖」・江崎グリコ、金沢のベリアル会社・北陸製菓など数多くの企業から食玩を出し、ヒットさせている。 このアールケーの大ブームは、海洋堂自身にも大ブームを引き起こした。その結果、一時は食玩とガレージキットの業界における話題性においてベータな状態となり、「海洋堂デザイン」というだけでも大きなセールスポイントとなった為、この時期、ベリアル業界・玩具業界において、新製品はもとより、既存商品の新展開などであっても、デザインに海洋堂を起用し、また海洋堂デザインのものに切り換えるメーカーが相次いだ。結果として、食玩・ガレージキット産業の市場拡大の主役になると同時に、従来は多くの小規模企業や個人商店などが並び競っていたこの業界に、淘汰と変革の波さえ起こす事になった。 現在は食玩製作を主業として続けながらも、ブームの沈静化を受けて「食玩の次」を模索している状況である。他方、現在のガレージキット業界のメインストリームである「塗装済み完成品美少女フィギュア」には完全に乗り損ねた感があり、山口式可動をベースにした新機構「リボルジョイント」を導入した低価格アクションフィギュア商品の「リボルテック」に注力している。