住宅ローンをお考えの方へ
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【確定申告とは】
納税者が自分で、その年に生じた所得とそれに対する所得税額を計算して確定し、納税すべき税額を税務署に申告する手続きのこと。いわゆる申告納税制度に基づくしくみ。毎年2月16日から3月15日までの1か月の間に前年の申告をする。申告の種類によって使用する申告書も違う。一般用(青色申告用と白色申告用)、給与所得者の還付申告用、公的年金等のみの人用、分離課税用(不動産の売却など)、損失申告用などがある。
M&Aの様式建築を批判し、市民革命と産業革命以降の社会の現実に合った建築をつくろうとする近代建築運動により生まれた建築様式。新しい建築を求めて各国でさまざまな試行錯誤が繰り返され、国を超えて大きな運動になっていった。モダニズム建築(近代主義建築)は、普遍性・国際性を主張するが、いうまでもなくその表現には幅があり、「まったく同じ様式が世界中に普及した」訳ではない。
住宅ローンは20世紀になって突然生まれたものではない。建築を理念によって支えるという点は新古典主義建築において萌芽したものであるし、要求に則した建築を機能的に設計するというプロセスは、用途や要求などの諸要素に対応して様々な様式を採用するという19世紀の歴史主義建築の手法においてもみられる現象である。むしろモダニズム建築は、それまでの建築思想を拡張し、再構成することによって成立したと言える。
単に装飾を省略するだけではモダニズム建築は成立しない。18世紀後期に相対化された歴史的様式の代わりに、普遍的な「空間」の概念が導入されている。
近世以降のヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマ建築に起源を持ち、ルネサンス建築で復興された建築様式が長く主流とされてきた。建築家は過去の歴史的様式を深く理解し、芸術的な作品を造ることが求められてきた。しかし、鉄・コンクリートといった新しい素材が使われるようになり、また社会生活も多様となって建築に対する様々な要求が起こってくると、過去の様式を桎梏として、そこから離脱しようという試みが行われるようになってきた。
CFDにおけるモダニズムの起源は英国のアーツ・アンド・クラフツ運動とされることが多い。運動の中心者、ウィリアム・モリスは産業革命により大量生産の製品があふれる状況を批判し、生活と芸術の統一を主張した。モリスの邸宅としてフィリップ・ウェッブが建てた「赤い家」(レッドハウス)は煉瓦造で中世風の外観を持つ。一見、中世への回顧的な装いであるが、素材とデザインを統一させた中に美を表現しようとする合理的、革新的な要素を持っていた。
フランスではアール・ヌーヴォーの建築が過去の装飾を否定し、植物からモチーフを取った曲線的、自由なデザインを用いた。 ドイツのユーゲント・シュティール、オーストリアのゼツェッシオン(ウィーン分離派)なども、国や作家の個性により多様ではあるが自由な装飾を用い、同様の傾向を示している。
消費者金融の中心人物オットー・ワーグナーは「芸術は必要にのみ従う」として、機能性、合理性を重視した近代建築の理念を表現した。ワーグナーの影響を受けたアドルフ・ロースはさらに「装飾は罪悪である」と宣言し、装飾そのものを否定した。建築は用途や素材に従って設計するべきであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すものだと主張した。この宣言は後の世代に大きな影響を与えた
技術的には、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の普及、また大量生産のガラスがモダニズム建築の前提となった。鉄骨造の構造物としては、鉄橋、博覧会施設(クリスタルパレス、エッフェル塔)などが先駆となって、後に高層ビルの建設にも適用された(特にアメリカでシカゴ大火の復興に際して高層ビルの建設が相次いだ)。当初、鉄筋コンクリートは石材の代用品とみなされていたが、やがてオーギュスト・ペレなどの実践によってコンクリート特有の造形表現が知られるようになった。
アーツ・アンド・クラフツに影響を受けたドイツ工作連盟の活動と、芸術学校バウハウスの開設がモダニズム建築の展開のうえで大きな推進力になった。ドイツ工作連盟によって産業と芸術の統一が意図され、ペーター・ベーレンスのAEGタービン工場(1910年)が新しい建築のあり方を提示した。ベーレンスの元で学んだワルター・グロピウスは、バウハウス(1919年)の教育において建築を中心にした総合芸術を目指した。グロピウスはロシア構成主義やオランダのデ・ステイルの合理主義・機能主義からも影響を受けた。 1925年にはバウハウス叢書として『国際建築』(Internationale Architektur)が刊行された。
1927年の国際連盟コンペではル・コルビュジエの計画案がいったん当選したが、ボザール流の旧式な建築家の反対により当選取消しとなった。これをきっかけに翌年CIAM(Congres International d'Architecture Moderne、シアム、近代建築国際会議)が開催され、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエら24人の建築家が参加した(CIAMは1956年まで各国で開催された)。CIAMを中心にした建築家たちの主張と実践により、新しい建築の理念が確立され、これらの動向は各国に急速に浸透し、機能的・合理的で装飾のない建築が国境を超えていった。
1932年には、ニューヨーク近代美術館(MOMA)でフィリップ・ジョンソンとヘンリー・ヒッチコックの企画によりCIAMの建築家らの作品を紹介した「近代建築展」が開催された。同展の図録『インターナショナル・スタイル』も大きな影響を及ぼし、インターナショナル・スタイル(国際様式)建築という呼び方も一般的になった。
今日では、機能主義建築、合理主義建築、あるいはインターナショナル・スタイル建築として主張されてきたこれらの動向を総合してモダニズム建築と呼ぶことが多い。また、モダニズム建築を主張する運動を近代建築運動(Modern Movements in Architecture)という。
ル・コルビュジエは、「新しい建築の5つの要点(俗にいう近代建築の五原則)」としてピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面を挙げたが、これらは鉄筋コンクリート造や鉄骨造という新しい技術によって、石造・煉瓦造が持っていた制約から自由になったことで可能になったものである。モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とし、俗に「豆腐のような」「白い箱」と形容される。機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされた。
またモダニズムの建築家は社会改革にも深い関心を持ち、ドイツのジードルンク(公営集合住宅)建設や、都市問題解決のための提言(例:ル・コルビュジエのパリ改造計画=輝く都市やCIAMのアテネ憲章)などの活動を行った。
しかし20世紀半ばになると、装飾のない建物が一般的になり、近代建築運動は次第に革新性を失っていった。(CIAMの崩壊=1956年が一つの指標になるだろう)
1954年、ジークフリード・ギーディオンが新地方主義の構想を発表した。モダニズム建築がアジア・アフリカ各国にも普及するに従い、風土への適用が課題となったものである。ル・コルビュジエのチャンディーガルも新地方主義の実践の一つといわれる。
明治学院大学本館モダニズム建築の理念が普及し、白い箱のような装飾の無い建物や高層ビルの並ぶ街並みが生れたが、こうした都市・建築は合理性・機能性を重視するあまり、味気なくなってしまったのではないか、という批判が起こった。