住宅ローンをお考えの方へ
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【借り換えとは】
現在借りているローンを、より金利の低いローンに切り換えること。公的融資を銀行ローンに、またはA銀行からB銀行へ換えるパターンがある。以前は物件の担保評価がローン残高より低いと借り換えられなかったが、最近は、担保割れが1000万円までなどと一定の範囲以内であれば借り換えが可能な銀行も増えてきた。借り換えは、前のローンを精算して新たにローンを組むのと同じなので、抵当権設定登記などの諸費用がかかる。
為替を単に時代区分として捉えた場合、コンスタンティヌス大帝が330年に首都をビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転した時から、1453年のオスマン帝国によるローマ帝国滅亡までのほぼ1100年間にも及ぶ時代を指しているが、「東ローマ帝国」の呼称が、現代の歴史編集によって、東方世界に継承されたローマ帝国を便宜上区分しているだけであるのと同様に、ビザンティン建築についても、4世紀の時点でローマ建築との様式的、工学的な転換点が明確に存在するわけではない。
4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成され、今日、これは特に初期キリスト教建築と呼ばれている。キリスト教徒は教会堂を建設するにあたって、ローマの世俗建築であるバシリカを採用したが、ユスティニアヌス帝の君臨した6世紀に、宗教空間としてより象徴性の高いドームを取り入れた儀礼空間を創造した。ハギア・ソフィア大聖堂はその嚆矢であり、バシリカとドームを融合したキリスト教の礼拝空間はそれまでにない全く新しい形態であった。これは、ローマ帝国から受け継がれた高度な建築技術によって完成したものであり、初期ビザンティン建築の傑作であるとともに、ローマ建築の技術的な最終到達点であると言える[1]。
外貨預金や異民族の侵入による国土の縮小、帝国の政治機構の転換にともなってビザンティン建築も変容し、やがて初期ビザンティン建築とは異なった特有の建築形態を獲得するに至った。初期のビザンティン建築が勢力下に張り巡らされた建築材料の流通経路や建設のための高度な施工技術から、ローマの建築(末期ローマ建築)でもあると言える[2]のに対し、7世紀から9世紀にかけての東ローマ帝国は、古代世界とは異なった状況を迎えているため[3]、この暗黒時代をビザンティン建築のひとつの分岐点とする指摘もある[4]。
中期以降の東ローマ帝国は地中海貿易の優位性を失い、唯一の大都市コンスタンティノポリスを擁する農業国となったので、初期の建築とは必然的に異なる様相を見せる。11世紀初頭には皇帝バシレイオス2世の元で東ローマ帝国は最盛期を迎えるが、巨大な公共建築物は必要とされなくなり、建設の主流は貴族や有力者の個人礼拝のための施設に向けられた。これは9世紀まで続いた聖像破壊運動が修道院の独立を促し、修道院の建設、移転、譲渡が裕福な寄進者によって行われるカリスティキアと呼ばれる制度が形成されたことによる。多数の人員を収容する必要がなくなったため、教会堂は小型化し、その結果、それまでのバシリカは放逐されて、内接十字型とよばれるドームを頂く中小規模の教会堂建築が主流となった。
IPOから13世紀までの中期ビザンティン建築には、ほとんど変化が見られなかったが[5]、十字軍の侵略による国家の分裂、西ヨーロッパの宮廷とのつながりなどにより、帝国末期の建築には多様性が見られるようになった。帝国に在留する西欧人は自国の建築を移植したため、末期ビザンティン建築には、ロマネスク建築やゴシック建築の影響を受けたものも散見されるが、その発展は帝国の滅亡とともに途絶え、東欧諸国の建築にその影響を残すのみとなった。
東ローマ帝国では、住宅や宮殿、貯水槽、要塞、橋梁、慈善施設などの建造物が造られたことが豊富な文献より明らかであるが、こうした中期以降の世俗建築はほとんど残っていない。また、東ローマ帝国の文書は細部の説明が不明瞭で、日常生活についての記述ほとんどないため、ビザンティン建築の実情をはっきりと説明できる建築物は残存する教会堂建築に限られる。しかし、東ローマ帝国の人々は教会建築しか作らなかった訳ではない、ということは考慮する必要がある。
4世紀から6世紀までの初期ビザンティン建築は、末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在しているが、両者の明確な区別はほとんど不可能である。また、この時代の宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず、これについての記述は今後の発掘・研究を待たねばならない。一方で、今日、初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、文献や遺構の調査によってその全貌が知られている。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
典型的なバシリカ平面の教会堂内部。高窓のある身廊とそれより低い側廊からなる。黎明期のキリスト教は美術に対して敵対的で独自の宗教美術は持たず、文献などから宗教行事は比較的大きな個人邸宅を借用していたと考えられている。しかし、布教地域が拡大するにつれて宗教美術も発展しはじめ、4世紀前半にはローマの神々を祭る異教礼拝堂を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立した。
株におけるバシリカはそもそも礼拝を目的とした建築ではなかったが、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されている[6]。ただし、これはキリスト教独自の活動ではなく、ユダヤ教やミトラ教も同様で、ロンドンのクイーン・ヴィクトリア・ストリートに存在するミトラ教寺院(2世紀頃)の遺構などもバシリカ式神殿であることが知られている。
初期キリスト教建築としては、ローマにはじめて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカ[7]や、 450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院のアギオス・ヨアンニス聖堂[8]、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる[9]。これらは全てバシリカである[10]。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている[11]。
聖ウィタリスの記礼拝堂。八角形の集中式平面を持った教会堂のひとつ。
シリアのカラート・セマーン建築群
十字型の複合建築物で中央八角形の中庭に聖シメオンの柱があった。初期キリスト教建築として特筆すべきもうひとつの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法をおこなったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された柱上行者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。