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【基準金利適用住宅とは】
旧・住宅金融公庫の融資条件のひとつ。公庫は当初10年間が低く、11年目以降に高くなる段階制金利を採用しているが、当初10年間についても、住宅の規模や性能によって基準金利、中間金利、大型金利という3つの金利に分かれており、このうち一番低い基準金利を適用できる住宅の条件が「基準金利適用住宅」。耐久性、省エネ、バリアフリー化などのプラスアルファの条件をクリアする必要があった。公庫の廃止とともに消滅。
くりっく365における建築の合理的解釈は、ペローにおいては、遺跡の測量やルネサンスの建築論を比較して、オーダーなどの建築比例が決して宇宙的秩序を具現したものではないという見解を示し、コルドモワにおいては、ゴシック建築の構造的側面に着目し、加重を支持する垂直と水平のラインの強調という特質が、古典主義建築の文法によって説明できることを示した。すなわち、ルネサンス以降、自明的とされた前提に対して根本的な問題を提起するものであった。
ロジエの『建築試論』は、これらのフランス合理主義の結節点となった。それは、「原始の小屋」という建築の根源的形態と考えられた柱、梁、破風を重視し、他の要素を付属物と見なすことであった。また、コルドモワと同じく、ゴシック建築の構造的な合理性に言及し、その手法がこれからの建築に表現されなければならないとされた。1765年に発行された『建築に関する省察』では、1:1の比例を最も美しいものと考え、正方形を最良の図形と定義している。『建築に関する省察』は、あまりにも頓狂なものと評価されたが、『建築試論』は各国で読まれ、初期の新古典主義建築は、敢えて言えば、試論を積極的に肯定するものであるか、または批判するものかのいずれかであると言い得る。
日経225は、実験と数学的計算によって求められるべきものというスフロと、経験則を重んじるピエール・パットの間で議論が交わされた。しかし、両者ともに、構造理論を説明するために用いたサンプルはゴシック建築であった。彼らや、あるいはカルロ・ロードリといった理論家たちの構造理論は、非常に重要なものであったが、ローマ建築にしろギリシア建築にしろ、彫刻的なものだと評価した当時の建築家たちは、あまりこれらの理論を好まなかった。ところが、以降、建築の構造原理が重要さを増してくるにつれ、ゴシック建築は構造を表出した正直な建築とみなされるようになり、ゴシック・リヴァイヴァル運動の勃興の契機となった。
新古典主義の目的の一つは、原始的な純粋さ、単純さへの純化的な回帰によって、真の美を表現することにあった。このため、ローマ、ギリシア、エジプトのほか、インドや中国の建築に関する考古学的文献、実測図面が要求された。これら各地の建築物から、普遍的な建築形態を抽出しようとしたのである。
包また、1745年に刊行されたリチャード・ポコックの『東方と他の諸国の解説(Description of the East and Some Other Countries)』を契機として、リチャード・ドルトンによる『ギリシアとエジプトの古代建築(Antiquities of Grees and Egypt)』(1752年)、ジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシアの最も美しい記念碑の廃墟(Les Ruins des plus beaux monuments de la Grece)』(1758年)など、ギリシア建築の詳細な図版集が発行された。なかでも最も重要なものは、ル・ロワの著作に対抗するかたちで出版されたジェームズ・スチュアートとニコラス・レヴェットによる『アテネの古代遺跡(Antiquities of Athens)』(1762年)である。遺跡の測量と記録の時期、そしてその正確さにおいてもル・ロワに先んじた著作で、グリーク・リヴァイヴァルの流行に寄与した。
CFDのギリシア建築の発見は、それまでごく一部の人々にしか知られていなかったローマよりも古い建築物をヨーロッパにもたらした。よりプリミティブな建築はローマ建築かギリシア建築か、といった問題に関して、『ローマの建築と壮麗について(Della Mgnificenza ed Arcitettura de’ Romani)』(1760年)を出版したジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージやウィリアム・チェンバーズ、ジェームズ・ペインらのローマ建築擁護派と、トーマス・ブラックウェル、ル・ロワ、ジェームズ・スチュアートたちギリシア建築擁護派との間で激論が交わされた。この論争によって、ギリシア建築に評価が与えられた結果、グリーク・リヴァイヴァルというギリシア様式の導入が保証された。
18世紀、ギリシア建築ほどのインパクトはもたらさなかったものの、エジプト、インド、そして中国建築までもが建築的思考の対象となった。しかし、各時代、各地域の建築に関する情報が集積され、研究されるに従って、ルネサンス以降信じられたオーダーに内在する絶対的な美や、古代に存在した純粋性などというものの存在はむしろ否定され、建築美とは、恣意的で相対的なものにすぎないと考えられるようになった。
ガブリエル・ピエール・マルタン・デュランは、『集成比較』で、ロジェの原始的小屋の構成(柱、梁、破風)が建築の規範であるとする概念を否定し、ビルディング・タイプごとに歴史上の建築を並列配置した。デザインの基本原理は単純化された幾何学、すなわち規則正しいグリット・パターンと対称性に還元された。このため、19世紀には、個々の建築に各時代の様式が恣意的に選択されるようになり、ネオ・ルネサンス、ネオ・バロック、ゴシック・リヴァイヴァルといった様式の氾濫期を迎えることになった(歴史主義建築参照)。
ルーヴル宮殿ナポレオンの失脚後、大型プロジェクトは失効し建築活動は再び低迷した。この時期の新古典主義建築において主導的な役割を果たしたのは、疑いなくベルリンのフリードリッヒ・ジリーであって、フランスでは、美術アカデミー書記長であったキャトルメール・ド・カンシーが建築を指導していたが、それほど重要な動向はなかった。カンシーは実際の芸術活動においては優れた作品を残すことはなく、ギリシア芸術を理想としながら、好みは疑いなく古代ローマのものであった。ルイ・ピエール・バルタールのリヨン裁判所やルイ・イポリト・ルバによるノートルダム・ド・ロレット教会などはカンシー主導によるコンクールで選ばれたものである。
革命以後、すでに新古典主義は唯一絶対の建築様式ではなく、建築家たちは自らの建築様式に対して、次第に多様なアプローチを採り始めた。ジャック・イニャス・イトルフは、ギリシア建築は華美な彩色が施されたことを主張し、シャン・ゼリゼに彩色を施したパノラマ館と冬のサーカス館をデザインした。1830年に起工したサン・ヴァンサン・ド・ポール教会は彼の主要作品である。その外観は迫力に欠け、生気がないが、内部空間は、ギリシア建築が華やかなものであったとする彼の持論を見事に具現している。しかし、そこに新古典主義の理念を見いだすことはもはや困難である。
大英博物館ブロンデルの下で建築を学んだウィリアム・チェンバーズは、イギリスの建築家としては最も早く新古典主義の様式に接し得た人物であるが、彼はこの建築様式から常に距離をおいた。新古典主義の新的なデザインはイギリスの建築的伝統に沿わず、折衷的な様式が好まれたからである。イギリスでは、新古典主義とはいくつかある現象のうちの一つにすぎなかった。当時最も影響力のあったロバート・アダムやジェームズ・ワイアットも、新古典主義のモティーフやパッラーディオ主義、ピクチャレスクの概念をちりばめた様式の創造に専念した。
チェンバーズの弟子ジェームズ・ガンドン、トマス・クーリーらは、新古典主義の要素を比較的率直に表現したが、彼らの拠点はアイルランドであった。イングランドでは、ジェームズ・スチュアート(James Stuart (1713-1788))らによる グリーク・リヴァイヴァルが興りつつあったが、ジョージ・ダンス、そしてジョン・ソーンという建築家によって、新古典主義は結局のところロマン主義的に処理された。彼らは新古典主義建築やゴシック建築など、様々な異質な要素を再構成し、独創的な空間をつくりあげた。