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【キャッシュフローとは】
直訳すると「現金の流れ」のこと。つまり、投資活動や経費として実際に支出したお金と、売上によって入ってきたお金の動きを意味する。最終的に損益計算書のプラス・マイナス(現金残高)で表現される。会計基準が変わってもキャッシュフローは変わらないため、事業の収益性を判断するうえで重要な指標になる。不動産経営では、継続的に入る賃料収入(インカムゲイン)と売却益(キャピタルゲイン)の総和がキャッシュフロー。
外為に、モスクワに美術・建築などの教育機関「ヴフテマス」(国立高等芸術技術工房、1920年〜1930年)が創設された。ウラジーミル・タトリンやメリーニコフが教鞭をとり、非常に短期間だったが先鋭的な作品が数多く生まれた。まさにロシア版のバウハウスだった。
ホテル・レニングラード(1949年〜1952年、モスクワ、L.ポリャコーフ)詳細はスターリン様式を参照
ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれたラディカルな芸術運動は、スターリンの手により終結を迎えた。構成主義の押し出しの弱い建築は「様式論争」なかで否定され、再び国家の権威を強調したクラシック様式が好まれるようになった。
不動産のソビエト宮殿の構想は、ソビエト誕生後の建築における一大転換点になった。ソビエト宮殿のコンペは1931年に開催され、当時の建築界の巨匠ル・コルビジェ、ロシアのメーリニコフも参加した。
しかし、構成主義の建築家の案はコンペに残ることはなく、労働者の像を頂点にしたモニュメント性の高いボリス・イオファンらの案が採用された。頂点の像をスターリン像に変更し、エンパイアステートビルディングを抜く高さを目指した。
スターリンは1947年のモスクワ建都800年記念に際して、世界の模範的首都とし、ソビエト宮殿を含むモスクワ再建を命じた。ソビエト宮殿は再着工したものの基礎工事のみで完成することはなかった。宮殿を取り囲むように配置された高層ビル群「セブン・シスターズ」は姿をあらわした。これらのビルは頂点には尖塔を取り付け、その威容を示した。
モスクワ地下鉄のエレクトロザヴォスカヤ駅。スターリン様式での建築で顕著な例の一つとしてモスクワの地下鉄であった。モスクワは急激な人口増加に対応すべく、地下鉄を国家的事業として推進した。地下鉄建設はさらにスターリン政権下で「社会主義のショーウィンドウ」・「労働者の宮殿」として定義された。地下鉄の駅の内装用の建材として、20種類の大理石・花崗岩・斑岩・ばら輝石などがソ連各地から集められた。建築された駅は、華美な装飾に彩られていった。
フルシチョフ時代の集合住宅1954年のスターリンの死後に権力の座についたフルシチョフはスターリン批判を展開した。これはロシア内外に波紋を与えた。建築においても、スターリン時代の建物は労働者の要求を忘れ、コストや利便性を無視して華美に走ったと激しく非難した。
フルシチョフは、共産主義の主役である労働者が数世帯が共同入居していた劣悪な住環境から開放するため、新たに一世帯に一つの住居を提供する5ヶ年計画を策定した。この計画に基づいた集合住宅の建設には、経済合理性というコンセプトのもと質素なコンクリート・パネルによる工法が主流となった。
フルシチョフ失脚後、ソビエトは官僚主義が支配する時代となった。ソビエト建築も長い停滞時期に入った。ソビエト国内でオリジナリティを発揮できなくなった建築家たちは国際建築コンペの出展により活路を見出そうとした。これらの運動は「ペーパー・アーキテクト」とよばれ1980年代に数々の国際コンペで入賞を果たすようになった。
FXのゴルバチョフにより始められた「ペレストロイカ」により、建築も長い停滞期を脱した。改革開放が進み大学教授が実際の建築設計を行えるようになった。すでに西側では死んでいた「ポスト・モダン」が一大ブームとなった。またアヴァンギャルドや構成主義の復活を試みるものも現れたが、多くはものまね終わった。
1991年にソビエトが崩壊した。建築技術・資本など様々なものがロシアに流入した。経済はしばらく低迷したが、石油など豊富な資源により段段と成長過程に入った。建築界も西側のコピーから従来のロシア建築の見直しや融合など新たな段階に入った。
第二段階は、古典様式を科学的に再解釈する段階だった。合理的な立体構成と実用的な装飾が好まれた。代表的なものはモスクワ歴史博物館(1875年〜1883年、モスクワ、V.シエルヴード)などである。
第三段階は、古典様式を、専制的なものではなくロシア諸公国時代の自由な発想を見出そうとした。そのきっかけは、画家V.ヴァスネツォーフとV.ポレーノフによる伝統建築の芸術的解釈に基づいた新たな美的基準の創出運動だった。彼らはロシア諸公国時代にモチーフを求めた。第三段階の代表作としてはトレチヤコフ美術館(1870年〜1905年、モスクワ)などである。
19世紀末からヨーロッパ全体に起こった新建築運動のモダン主義はロシアにも出現した。モダン様式の建築家たちは、折衷様式など古典的手法を否定した。そして歴史や過去の芸術の解釈よりも、個人的な嗜好や感情を優先した。
モダン様式の建築家たちは、またあらゆる芸術分野の融合させることで完全な創作を目指した。よって、建物の外観だけでなく細部の装飾やインテリア・家具までも、一貫した主張をもつようにデザインした。
着色したタイルやステンドグラスを多用したのもこの時期の建築の特色であった。ソーコル邸(1903年、モスクワ)やモスクワのホテル・メトロポール(1899年〜1903年)、ゴーリキー文学博物館(1900年、モスクワ)が初期のモダン様式代表作である。
第三インターナショナル記念塔(1919年ウラジーミル・タトリン)のモック・デザイン。この作品がロシア構成主義の扉を開いた。この画像の左側の二人目がタトリン本人。詳細はロシア構成主義を参照
ロシア革命は、ロシア芸術にとっても一大転機となった。いままでの権威主義的・宮廷芸術的な建築が否定され、社会主義的・合理主義的な先鋭化した様式への回帰が叫ばれた。これらの芸術革新運動はロシア・アヴァンギャルドと呼ばれた。
ロシア・アヴァンギャルド建築の中でもっとも論理的な手法を用いたのが「構成主義」だった。構成主義は、建築物の力学的に計算しつくした構造による構造美こそが建築美であるという単純化した主張だった。建物のファサードも装飾美ではなく、構成全体の美しさを表現するようになった。
メーリニコフ邸(1927年〜1929年、モスクワ、コンスタンチン・メーリニコフ)。すでに世界的名声を獲得していたため、ソビエト時代のモスクワに実験的な自邸を建築することができた。1925年のパリの装飾博覧会でソビエト館を設計し、外国館グランプリを手にしたのがコンスタンチン・メーリニコフだった。メーリニコフは以後「コロンブス・モニュメント」の設計など、世界的に活躍しロシア建築界の巨匠となり、構成主義の旗手であった。
シャーボロフスカヤのラジオ塔(1922年、モスクワ)ウラジーミル・シューホフ作。ウラジーミル・シューホフは、双曲面建築構造の外観をもつシューホフ・タワーと呼ばれる塔を創出した。ソビエト成立以後初めての大型構造物であったシャーボロフスカヤのラジオ塔を設計した。