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【キャピタルゲインとは】
株式や不動産などの資産を売却した時に得られる差益のこと。「値上がり益」「売却益」「譲渡益」ともいう。税務上は「譲渡所得」で、一般の給与所得や事業所得などとは別に分離課税される。特に個人の株式譲渡益課税のことを「キャピタルゲイン課税」と呼び、申告分離課税が原則。値下がりして損失が出た場合は「キャピタルロス」。「Capital」の意味は資本または元金。
先物取引に、啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式。ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索されたが、やがて19世紀の歴史主義、様式濫用の中に埋没した。
FXたんなる古代の復興にとどまらず、当時の政治情況とも関連していた。ルイ15世の時代を中心に展開したロココ様式の官能性や通俗性に対し、論理的で厳粛な、啓蒙的性格をもつ様式におきかえようとする動きが広がっていった。その後、革命運動をへてフランスとアメリカに共和国が樹立されると、古代ギリシャや共和政時代の古代ローマ民主主義との結び付きから、新政府の指導者たちは公式の美術として新古典主義を採用した。しかしナポレオンがフランスで権力の座につくと、この様式はナポレオンの宣伝効果をあげるためのものに変質する。またロマン主義の台頭にともない、個人的な表現に対する好みが固定的な理想的価値観にもとづく美術にとってかわることになった。
新古典主義という名称は、その格式ばった様式に対する蔑称として19世紀に考案された呼び方である。また、ナチスやファシスト党において、国家的モニュメントに新古典主義が採用されたため、その歴史的意義について否定的な見方をされることもある。
しかし、18世紀にこの様式が勃興した当初は「真の様式」と呼ばれ、古代または始源に存在したとされる真理を再生・復興することを目的とした画期的な建築運動であった。美を具現する唯一の様式としてイギリス、ドイツ諸国に波及したという意味で一種の普遍性があり、その建築思想はモダニズム建築にも受け継がれている。
FXは、18世紀中頃のフランスにおいて急速に成熟したが、基本となる建築形態や理念は、クロード・ぺローやジャン・ルイ・ド・コルドモワといった前世紀のフランスの建築家、建築理論家たちによってすでに用意されていた。
その萌芽は、1732年に設計競技が行われたパリのサン・シュルピス教会ファサードに現れている。しばしば前新古典主義と評されるこのファサードは、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニによって設計された。工事の進捗状況が遅かったため、彼は当初計画した平凡なバロック様式のデザインを変更し続け、水平のラインを直線的な構成でまとめあげた。塔の間には巨大な破風(ペディメント)があったが、1770年の被雷によって取り外され、最終的に水平と垂直のラインが強調されたギリシア神殿を思わるファサードが完成した。
『建築試論』第二版の口絵 原始の小屋新古典主義の最初の転換点となったのは、1753年に刊行されたマルク・アントワーヌ・ロジエの著作『建築試論(Essai sur l’architecture)』である。ロジエは建築の原始的形態にまで遡り、柱・梁(エンタブレチュア)・破風(ペディメント)の要素のみで構成された建築(「原始の小屋」)が、真の古典建築の規範であると考えた。ウィトルウィウスの理論が建築各部の意味をギリシア建築に由来するものとして解説しているのに対し、ロジエのそれは、あらゆる文明の発祥に適用するとのできる状態にまで還元したものである。もっとも、これは想像上の起原にすぎず、実証性に関しては無担保であったのだが、試論はすぐ各国語に翻訳され、ヨーロッパの建築思想に大きな影響を与えた。
ジャック・ジェルメン・スフロは、1755年に計画されたパリのサント・ジュヌヴィエーヴ教会(革命後はパンテオンと称される)で、ロジエの理想を最初に実現した。全体構成はロジェの考え方に沿ってはいるが、スフロ自身は様式の問題よりもむしろゴシック建築などの構造的問題に関心を持っており、様式については曖昧で折衷的な部分もあったので、この建築はあまり厳格にロジエの理念を反映しているわけではない。事実、ロジエはドームを支えるピアの付柱をバロック的意匠として非難しているし、スフロの意匠は継承されることがなかった。
エトワール凱旋門新古典主義の潮流は、オデオン座の設計者 マリ・ジョゼフ・ペールとシャル・ド・ヴァイイ 、ボルドー劇場のヴィクトール・ルイ、バガテルのフランソワ・ジョゼフ・ベランジェ、エトワール凱旋門を設計したジャン・フランソワ・テレーズ・シャルグランらによって引き継がれた。彼らには革命的な建築運動に携わっているという自負があり、建築によって社会が完全に刷新することを信じた。彼らに共通する要素は、厳格な立方体のシルエット、直線的な構成、半円のドーム、コリント式やイオニア式よりもドリス式とトスカナ式のオーダーを好んだことである。なかでもジャック・フランソワ・ブロンデルの弟子、エティエンヌ・ルイ・ブーレーとクロード・ニコラ・ルドゥーは最も革新的であり、絶大な影響力を持った。
いわゆる幻視の建築家として知られるブーレーは、建築教師として活躍し、実作はパリのアレクサンドル邸のほか少数が知られるのみである。彼のデザインしたサント・ジュヌヴィエーヴを巨大化させたような大教会、ピラミッド型の霊廟、超巨大ヴォールトに覆われた国立図書館、そしてニュートン記念堂などの巨大建築の計画案は、対称性が重視され、球体などの幾何学的マッスが強調された崇高なものであった。彼の影響は、ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌの大帝国の君主たちの記念碑や、アントワーヌ・ロラン・トマ・ヴォドワイエのコスリタンの家などに見ることができる。
ブーレーとは対象的に、ルドゥーは建築実務を好み、理想的な建築よりはむしろ実用的な建築のデザインを行った。幾何学的形態を複雑に組み合わせた彼の建築は奇妙かつ散漫であり、入市関税門、ショーの製塩工場とそこに計画された理想都市の建築(セノビ、オイケマ、墓地)、皇太子の狩猟小屋などは未熟な建築とみなされたが、全てにおいて独特の力強さを持っている。
ブルボン宮殿フランス革命とそれに続く時代はフランスの建築活動を著しく衰退させた。ナポレオンは大規模なプロジェクトを積極的に推進したが、すでに新古典主義はその躍動的なエネルギーを失っていたと言える。1807年に完成したアレクサンドル・ピエール・ヴィニョンによるマドレーヌ寺院や、ベルナール・ポワイエによって1808年に竣工したブルボン宮殿(現下院議事堂)のコリント式列柱を持つファサードは、古代ローマ建築の単なる模倣にすぎない。
シャルル・ペルシエとフォンテーヌは同時代の優れた建築家であり、1799年に皇后ジョゼフィーヌのために改装したマルメゾン城では、後にアンピール様式(帝政様式、Empire)と呼ばれる対比を強調した歯切れのよいデザインを表現したが、全体としては主にルネサンス建築からの着想を織りまぜた折衷様式である。彼らはナポレオンの命により、1801年にはテュイルリー宮殿の工事を行い、これとルーヴル宮殿を繋ぐ連絡路を計画した。1808年には、ルーヴル宮殿の内装工事に着手している。これらアンピール様式のデザインはいずれも新古典主義建築の新たな展開には成り得ていないが、(多くの場合、侮蔑的に)新古典主義の最盛期とみなされている。