住宅ローンをお考えの方へ
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【供託とは】
家主や地主が家賃・地代を受け取らない時に、法務局などの供託所に金銭を預けること。賃料の値上げ要求に反対して、従前の金額を支払おうとしても家主が受け取りを拒否する場合など、債務不履行で不利益を得ないための手段になる。厳密には、このタイプを「弁済供託」といい、他に民事執行手続きに伴う「執行供託」、損害を担保するための「保証供託」、公職選挙法による立候補や商号の仮登記のための「没収供託」がある。
外国為替に形成された都市の路地は迷路のように入り組み、ほとんどの場合、袋小路になっていた。近隣の関係性を無視して形成された結果であったが、このような路地空間が近隣住民のコミュニティの場となっていた[12]。オスマン帝国の都市には街区ごとのモスクの存在もあり、広場というものは必要とされなかった。
オスマン建築の土木技術の高さを証明しているのが、イスタンブルの給水設備である。イスタンブルには、すでにローマ帝国、東ローマ帝国によって、現在のキャウトハーネとベルグラードの森を水源とする給水路と貯水槽が建設されていたが、オスマン帝国がこれらの設備を利用したかどうかはあまり明確ではない[13]。
アフメト3世のセビル16世紀まで、イスタンブルの水路はハルカルを水源とする5本の給水管によってまかなわれ、第六丘陵から第一丘陵に至る尾根を伝って、トプカプ宮殿と各キュッリイェに伝達されていたが、このルートはウァレンス水道を伝って行われた東ローマ帝国の給水路とほとんど同じ経路であった。16世紀中葉に、ハルカルを水源とする給水路はさらに5本が追加され、オスマン帝国末期には合計16本の給水路が建設されていた。ハルカルの水路網は、キュッリイェやモスク、マドラサなどの、どちらかというと公共施設に対する給水を目的としていたが、16世紀中葉には建築家スィナンによって、キャウトハーネを水源とするクルクチェシュメの水路が整備される。この水路は、住宅やハマム、チェシュメなど、生活用水の確保を目的として建設されたものである。この水路はハルカルの水路とは異なり、丘陵の尾根ではなく、丘陵の中腹の等高線を沿うように整備されており、そこから海に向かって枝水路を延ばした[14]。
外為とクルクチェシュメの両水路の末端には、チェシュメと呼ばれる給水栓が建設されている。チェシュメは貯水槽の外壁に設けられたニッチに、給水用の末端設備を取り付けたものであり、周辺住民や水売りの溜りとなっていた。つまり、日本でいう井戸端である。チェシュメは、庶民が利用する機能重視の建築であるが、より豪華なものとして泉亭(セビル)と呼ばれる給水施設があった。こちらは公共性が高く、より趣のある洒落たデザインの建築であった。
オスマン帝国の領土は広大で、その地理、気候も地方によって大きく異なる。住宅建築は気候と伝統に左右されやすく、オスマン帝国全土に共通する住宅の一般的特徴を挙げることむずかしい。しかし、アナトリア半島からバルカン半島南部のイスラームの住宅には共通した特徴があり、オスマン帝国の住宅建築を代表するものであるため、ここではアナトリア半島一帯で建設された住宅について記述する。
イスラームでは、女性は家族以外の男性と自由に接触することが禁じられているため、セラムルク(男性の間)とハレムリキ(女性の間)が明確に分けられていた。一般住宅の住み分けは、階によって分けるもの、住宅の中心に壁を設けて長屋状になるものなどがあるが、オスマン帝国の宰相や高級官僚が居住した、 庭園を持った積石造の邸館(コナク)などでは、妻や幼い子供、女性たちが居住するハレムは完全に別棟の建築物になることもあった。トプカプ宮殿のハレムは独立した建築物であるが、ドルマバフチェ宮殿では大広間を挟んで陸に向かって右側がハレム、左側がセラムルクに分節されている。いかに粗末な家であってもこのような住み分けは行われており、壁ではなく、戸板やカーテンで仕切られた空間がハレムリキとしてあてがわれていた。
FXは、結婚後の女性にとって唯一の自由な空間となる。このため、長子の新婦に対しては、一般に最も日当りがよく、豪華な装飾を持つ空間が与えられる。家に外来者(女性が一人で外出することはありえないため、外来者はほぼ男性に限られる)が来ると、女性たちはハレムリキに隠れてしまうため、住み分けを階別に行っている住宅では、セラムルクを通らずに水場やトイレに行くための給仕用の動線が確保された[15]。住宅の中心に壁を設ける場合は、界壁面に回転扉が設置され、ハレムリキから給仕された食事や茶などを、この回転扉からセラムルクに受け渡した。
基本的に女性は生活の大部分を家屋内で行っていたが、外部からの視線に対しても気が配られていた。路地に面した窓にはカフェスと呼ばれる衝立てが設置され、これが外からの視線を遮り、逆に室内の女性たちは顔を隠すことなく、外の様子を窺うことができた。カフェスは窓の一部であるが、外部に突出して外来者を確認できるもの、さらに発展して買い物ができるように籠を上げ下げする小さな開口部が取り付けられているものもある[16]。
サフランボルの伝統的な住宅地方都市ではあるが、オスマンの伝統住宅の良好な姿をとどめているのは、世界遺産にも登録されているサフランボルである。サフランボルは、冬と夏で町の生活そのものが移動し、夏にはバー・エヴィと呼ばれる果樹園に取り囲まれた山の東斜面に生活の場が移る。仕事など、日々の生活には夏であっても冬の家が使われるが、仕事が終わると、人々は夏の家に移動し、そこで寝食を行うのである。夏の家と冬の家には、平面上、特に目立った差異はないが、夏の家は十分に風を取り込めるように開口部が大きく、かつ多く設置されている。逆に冬の家は開口部の面積が小さい[17]。
イスタンブルの住宅は、20世紀に至るまでほとんど変わることなく建設され続け、現在でも、イスタンブルのアジア側にあるユスキュダルや、ボル県のギョイヌックなどには、15世紀と変わらない都市型の住宅を見ることができる。イスタンブルのような大都市でも、上流階級に限ったことではあるが、夏と冬の住み分けは行われていた。しかし、都市があまりにも大きかったため、夏の家と冬の家はかなり隔離されていることが多い。夏の家は、景色の良いボスポラス海峡沿岸に建設されており、彼等は船を利用して邸宅を往来していた。反対に、冬の家はボスポラス海峡から吹く冷たい風を避けるように、金角湾を望む傾斜地に建てられていた。当然のことながら、庶民にはこのような別々の住を建設する余裕はなかったが、夏用の部屋と冬用の部屋を設置し、あるいは家具での季節替えを行っていた[18]。
カパル・チャルシュ(グランドバザール)オスマン帝国の商業空間はチャルシュと呼ばれる。チャルシュは伝統的に、貴重品を扱うため強固な建築となっているベデステン、通り市場状の建築であるアラスタ、隊商宿に由来するハン、そして巨大施設であるカパル・チャルシュから成る[19]。イスタンブルの場合、チャルシュは大規模な商店複合施設であるカパル・チャルシュ(「屋根付きチャルシュ」を意味する。いわゆるグランド・バザール)を中心として広がっている。イスタンブルのカパル・チャルシュはアラスタと呼ばれる商店が拡張したものであり、本来は別の商業施設で貴金属などを扱うベデステンや、金属加工の工房などをも包含している。グランド・バザールの名の通り、この種の施設としては最も巨大であるが、チャルシュ自体はモスクやハマムを巻き込んでさらにその外側に広がっていた。イスタンブルに限らず、オスマン帝国の町にはかならず街の中心となるチャルシュがあり、アラスタやペデステンのほか、かつて商隊宿泊所であったハン(キャラバンサライ)やパザル(露天市)などの空間もあった。チェルシュは、市場は日本ではペルシャ語に由来するバザールと呼ばれることが多いが、トルコではバザール(トルコ語の発音ではパザル)は露天商を意味する言葉で、定期市を指して用いられる[20]。常設の露天市場もあり、こちらはハルク・パザルと呼ばれる。
オスマン建築の商業施設において、もっともユニークな文化・空間は、1554年にイスタンブルに誕生したカフヴェハーネである。これは今日カフェと呼ばれる喫茶空間の始まりであり、ヨーロッパに取り入れられるやいなや、コーヒー・ハウスとして急速に普及した。ただし、オスマン建築において明確なカフヴェハーネの建築形態はなく、都市の条件や利用客の要求によって柔軟にその姿を変えつつ、現代に至っている。場合によっては、店舗がなくても路地にテーブルを並べただけで成立する[21]。ヨーロッパのコーヒー・ハウスと同じく政治的に重要なものになる場合もあり、現在でもロカルと呼ばれる政党事務所のようなカフヴェハーネもある。