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【共有名義とは】
1つの財産を1人で持っている単独所有に対して、1つの財産を複数の人で共同所有することを共有という。不動産を共有する場合は、共有者それぞれが負担した割合(出資比率)に応じて持ち分(共有持ち分権)を登記する。これが「共有名義」。共有者は単独で自分の持ち分を第三者に売却することができる。ただし民法では、住宅を建て替えたり売却するなど、共有物全体の変更や処分の場合には共有者全員の同意が必要とされている。
くりっく365は、北シリアの名望家アズム家のアスアド・パシャ(アサド・パシャ)によって、1742年に建設された宮殿であったが、1982年にシリア軍によるムスリム同胞団掃討戦によってほとんど破壊されてしまった。宮殿は逆丁字形をした謁見の間を中心として構成され、装飾はたいへん豪華で、ムカルナスに覆われた4つの大アーチに載るドームを頂く。建築の構成はマムルーク朝の建物の影響を認めることができる。同じくアスアドによって、1749年に建てられたダマスカスのアズム宮殿は、中央には広大な中庭を持つ形式で、これを柱廊のある大広間と部屋が取り囲む。多彩色の石材と木材を使った装飾のスタイルは、ハマーと同様に、非常に精巧である。トプカプ宮殿と同様、部屋は小さく質素で、さらに外部に対して宮殿であることの誇示はない。
ベイト・エッディーン宮殿は、アミール・バシール2世によってベイルート近郊の山中に、1810年に建てられた。2層2重の柱廊を持つ美しい中庭を囲む形式で、アーケードは八角形の小柱によって支えられている。中央に泉を配置し、ファサードに壁嵌を穿つ方式は、サファヴィー朝ペルシア建築の謁見室に類似しており、地方様式の影響が、オスマン建築の性質を抑えている。
ドルマバフチェ宮殿の大ホール19世紀になると、ヨーロッパ諸国の莫大な借款によってオスマン帝国は猛烈な公共事業を押し進める。最終的には成功しなかったが、タンジマートによって国家機構を西欧化しようとしたのである。建築においてもヨーロッパ宮廷の建築様式が積極的に取り入れられるようになった。このため19世紀のオスマン建築は、オスマン・アンピール様式と呼ばれる絢爛豪華な西欧風ものとなったが、平面構成は旧来の伝統に則したままであった。
FXのオスマン建築の担い手はアルメニア人のバルヤン家の人々で、この一族によって100棟以上の建築が設計された。
ヌスレティエ・ジャーミーは、1826年にマフムト2世がイェニチェリの解体に成功した記念として名付けられた宮廷礼拝堂で、クリコル・バルヤンが設計したものである。スルタンはトプカプ宮殿から海を渡って訪れるため、モスクの背後に控えの間がとられ、それまでのモスクのように前庭を必要とせず、代わりに2つの泉亭をもつテラスが設けられた。いささか過剰とも思われる装飾は、オスマン・アンピール様式と呼ぶにふさわしい。
1842年、アブデュルメジト1世によって、トプカプ宮殿に代わる新たな宮殿の建設が始まった。敷地には宮廷庭園のあるドルマバフチェが選ばれ、ガラベット・バルヤン、ニコオス・バルヤンが建設に携わった。1855年に完成したドルマバフチェ宮殿は、バロック建築の手法を取り入れたもので、中央に大広間が設けられ、海から向かって左側が公的空間であるセラムルク、右側を私的空間であるハレムに割り当てた構成となっている。建物へのアプローチはボスポラス海峡から船で行われ、外国特使は最初に大広間正面の波止場に降り立った。外部のバロック的意匠とは対照的に、平面はオスマン帝国の伝統的な住宅のものである。また、豪華な大理石張りの浴室や「クリスタルの階段」なども、オスマン特有の装飾趣味であると言える。ボスポラス海峡沿いにはユルドゥズ宮殿、ベイレルベイ宮殿が建設されたが、いずれもドルマバフチェ宮殿にならったものである。
オルタキョイ・ジャーミイ宮廷礼拝堂となるドルマバフチェ・ジャーミーは、ニコオス・バルヤンの手によって1854年に完成したものである。ヌスレティエ・ジャーミーとほぼ同じ構成でありながら、外部装飾は抑制され、より洗練された印象を受ける。彼はこのほかにも、オルタキョイ・ジャーミーを設計しており、同様に洗練したデザインを見ることができる。
オスマン建築の最も特徴的な建築物は大ドームを頂くジャーミーである。イスタンブルにおいて、オスマン時代のこれらのモスクと都市中心に位置するアヤソフィアを見比べ、そこにビザンティン建築の影響が認められると思われがちであるが、実際にはビザンティン建築とオスマン建築との間に認められる形態上の共通点(特に内部空間)は少なく、オスマン建築の発展過程においてビザンティン建築が果たした役割についてはあまり明確でない[6]。
他のイスラム建築からの影響をも取り入れなかったオスマン建築は、16世紀から17世紀にかけて最盛期を迎え、やがて衰退するが、末期においてすらヨーロッパ建築の影響は装飾的部分に限られており、平面計画はオスマン建築の伝統的な形態に従っていた。
FXが、1453年にコンスタンティノポリスを陥落させて市街に入城した時、30万から40万人の人口を擁し、「世界の富の3分の2が集まるところ」とされたこの都市は、ほとんど廃墟と化していた。メフメト2世はすぐさまコンスタンティノポリスの再建を指示し、アナトリア半島の各地からトルコ人のみならず、エジプト人、シリア人、ペルシャ人[7]のほか、ユダヤ人、アルメニア人[8]、ギリシャ人などの非イスラーム教徒をも移住させた。征服時に数千人にまで減少した都市の人口は、1480年頃には7万人に回復し、スレイマン1世の即位時には40万人、16世紀末には70万人にまでふくれあがる。このような急速な都市の発達により、イスタンブルにはキュッリイェを除けば明確な都市計画はない。都市住民は建てたいところに庭の付随する木造2階建ての住居を建設し、官憲の監視(あまり厳しいものとは言えないが)にも関わらず、時には道路の形状まで変えてしまうほどであった。このため、イスタンブルには大通りと呼べるものはディーヴァーン・ヨルと命名された通りしかなく、そのほかの道では馬車ですら通すことが出来ないほどで、物品の運搬は人力に頼るものであった[9]。また、東ローマ帝国の時代には積石造の壁体であった一般家屋も、オスマン帝国の時代には木造、練り土壁となったが、このような都市構造は火災に対して非常に脆弱で、しばしば深刻な被害を受けた。しかし、帝国の全時代を通じて古代の地中海特有の整然とした都市形態は採用されず、現代に至っている[10]。
地方都市では、イスタンブル以上に都市は無計画に形成されたと言ってよい。オスマン帝国では、大?中規模の都市に人口が集中する傾向にあり、スレイマン1世の統治下40?50年程度の間に、3倍もの人口増加を経験したカイセリのような都市もあった。また、中世以降のヨーロッパの都市のような行政組織もなく、オスマン帝国の都市居住者には、都市計画という概念はまったくなかった。16世紀初頭まで、東ローマ帝国によって建設された都市ではかつての街路が生き残っていたが、16世紀の経済的発展のなかで侵食され、ついには消滅していった。その無秩序ぶりは、都市の生活水準が高いとはとても言えないはずの当時の西ヨーロッパの旅行者ですら、呆れさせるほどである[11]。都市の混沌は急速な経済的発展を遂げたことを意味しているが、このような都市として、アナトリアの中心都市であったブルサや羊毛の輸出拠点であったアンカラ、海上交易によって発展したイズミル、ペルシャからの交易中継地であったアレッポ、メッカへの巡礼中継地であったダマスカス、ヨーロッパ方面の軍事拠点都市であったエディルネなどを挙げることができる。