住宅ローンをお考えの方へ
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【金融債とは】
あおぞら銀行、新生銀行、みずほコーポレート銀行、農林中金、商工中金など、法令で認められた金融機関が発行する債券。購入は1万円以上1万円単位。利子の支払い方によって、利息(クーポン)が支払われる利付金融債と購入時に額面から利子相当額を割り引いて発行される割引金融債がある。利付金融債の償還期間は5年が一般的。「ワイド(利子一括払い利付金融債・5年物)」もその商品の一つ。割引金融債の償還期間は1年。
外国為替証拠金取引において多くの建築を設計したが、その最晩年の建築となるのが、エディルネのセリミィエのキュッリイェである。彼自身が最高傑作と称するモスクは、ドームの直径が31.28mに達する巨大なもので、平面はほとんど点対称である。構造的にも素晴らしく、ドームは8本の円柱とそれらに渡されたアーチによって支えられ、これをフライング・バットレスが支えることによって広大な内部空間を形成する。開口部もふんだんに穿たれており、内部は非常に明るい。キュッリイェの他の施設は、モスクに付随する2つの建築物に収められており、全体のプランは完全な対称性を保っていた。
スルタンアフメト・ジャーミースィナン没後、帝室モスクはそのデザインの源泉をスィナンのあらゆる建築の中に求めたが、決して彼の想像を超える建築物は造られなかった。イェニ・ジャーミーはスィナンの後継者であるダウト・アーによって設計されたが、彼は1599年に処刑されてしまい、1633年に完成したこのモスクは、スィナンのものと比べるとその構成はかなり見劣りするものとなった。
スィナン以後のモスクで最も有名なものはスルタンアフメト・ジャーミーで、国際的にはブルーモスクの通称で知られる。これは1609年にメフメト・アーによって設計されたもので、彼はイスラーム教徒ではなく、西ヨーロッパ生まれでのキリスト教徒であった。ブルー・モスクは今日、イスタンブルの観光名所として名高い。内部空間には広がりがあり、ステンドグラスによる淡い光とイズニック・タイルの装飾は非常に美しい。
資産運用、オスマン帝国では巨大公共建築はほとんど建設されていない。しかし、住宅は継続的に建設されており、以後のオスマン建築は宮殿・住宅建築が主要な要素となる。
メフメト2世によって建設されたトプカプ宮殿は、18世紀以後も増築と改築が繰り返されており、初期の建物はほとんど残っていない。オスマン最盛期に建設されたものとしては、1578年にスィナンによって再建されたハレム、1585年にダウト・アーによって建設されたアルズ・オダ(謁見の間)などがある。貴族階級の様々な要求を満足するかたちで、オスマン後期になってもキョシュクは建設されつづけた。
バーダット・キョシュク
イスハク・パシャの宮殿後期に建設されたもので最も有名なものは、1623年にバグダッド再征服を祝ってムラト4世の命により建設されたバーダッド・キョシュクである。これは、当時の宮廷建築家ハサン・アーによって設計された。元来は王座の間として建設されたと推測され、十字平面の上に載るペンデンティヴ・ドームは黄金のアラベスク模様のタイルで飾られた豪華なものであるが、タイルの質には、すでに芸術的衰退の兆しがあることが指摘される。このほか、カラ・ムスタファ・パシャのキョシュクなどは18世紀に再建されたものでる。
トプカプ宮殿やボスポラス海峡沿岸にたてられたキョシュクは、オスマン帝国の住居建築の理念を体現していると言える。19世紀にいたるまで、材質や装飾、調度品の豪華さの程度はあるものの、平面的には皇帝や貴族と庶民の間には基本的な差異はなかった。宮殿の内部空間の大きさは人間的な尺度で作られ、決して壮大なものではなく、また、特定された目的のための部屋、という意識はほとんどなかった。住宅には居住空間としての柔軟性が求められてたのである。
オスマン帝国の総督たちは地方において王の様に振る舞い、彼らによって、帝国の勢力下にはすばらしい宮殿建築が残されている。アララト山の麓、ドウバヤズィト近郊に1784年頃に完成した、イスハク・パシャの宮殿は、オスマン帝国から半ば独立した状態にあったクルド人の知事イスハク・パシャによって築かれた宮殿であった。20世紀に軍の駐屯地としても使われたこの建築複合体は、防御の容易な山の頂きに建つ。全体的にはオスマン建築よりも、ルーム・セルジューク朝の建築様式の影響が強いが、ヴァン湖にあるアクダマル島のスルブ・ハツ聖堂のような浮き彫りを想起させる装飾も用いられている。また、中庭に向いた円柱に載る3連アーチの柱廊部分には、北シリアの建築の影響を認めることもできる。
ファーティフ・ジャーミイの前庭
投資信託のキュッリイェメフメト2世の建立したジャーミーは、ファーティフ(征服者)・ジャーミーとそのキュッリイェである。モスクは1766年に地震で倒壊してしまったので、今日、1470年に創建された当時の姿はない。しかし、研究により再現された計画は、直径26mのドームを頂く正方形のプランで、幾何学性を重んじた造りになっていた。これはキュッリイェにも浸透しており、各施設が理路整然としかも対称的に配置されている様は、初期の段階のキュッリイェが無秩序に配置されていたのとは対照的である。前述の通り、モスク自体は後に再建されたのだが、前庭の周囲は地震による影響を受けなかったので、広々とした空間と各施設に至る連続したアーチを見ることができる。
神秘主義教団と関わりの深かったバヤズィト2世は、教団の本拠地であるエディルネにジャーミーとキュッリイェを建設した。バヤズィト2世のジャーミーは、外観は明らかにアヤソフィアの模倣であるが、内部の礼拝空間はペンデンティヴ・ドームによる単一ドーム形式で、アヤソフィアとはまったく異なっており、このような形式は後の会衆モスクの原型となった。キュッリイェには、チリニ・キョシュクに似たタブハーネや、精神疾患の治療に充てられた病院ダール・シッファー、マドラサが建設され、ファーティフ・ジャーミーほど幾何学的形式で配置されているわけでないが、秩序立てて配置されている。
ミマール・スィナンは、スレイマン1世による帝国最盛期のオスマン建築を代表する建築家である。彼は非イスラーム教徒の家庭(ギリシア系と言われる)に生まれたとされるが、デウシルメ制度によって徴集されてイスラームに改宗し、イェニチェリ(常備歩兵軍)の工兵隊に入隊した。やがて建設の才能が認められて近衛騎兵隊に取り立てられ、1538年に帝室造営局長に任命されて、以後宮廷建築家として才能を発揮した。彼は、ほぼ同時代に生きたミケランジェロ・ブオナローティと比肩しうるほど非凡な才能を持った革命的建築家であった。それまでのオスマン建築が様々な形態を寄せ集め、結果的に曖昧な空間になっているのに対し、スィナンはそれを論理的に組み立て直し、全体を調和したものに変えてしまった。オスマン建築は、彼によって完成の域に達したのである。
スィナンのはじめての大きな仕事はシェフザーデ・ジャーミーの設計であった。このモスクはエディルネのバヤズィト2世のモスクのプランを下敷きにしているが、四方に半ドームが付け加えられた集中的な性格が強いもので、絶妙のバランス感覚の上に建設されている。スィナン自身はこれを習作とするが、そのプロポーションは完成度がかなり高い。
スレイマニィエ・ジャーミー内部
セリミィエ・ジャーミー内部1550年に、スィナンは代表作となるスレイマニィエのキュッリイェの建設工事の命を受けた。イスタンブルの7つの丘のうち、斜面から金角湾を望むうちのひとつが敷地として選ばれ、中心となるモスクには高い記念性を要求されることになった。スィナンはシェフザーデ・ジャーミーを元にしたプランを計画したが、半ドームを四方ではなく前後の2辺に設置することによってアヤソフィアに近い構成にしている。しかし、アヤソフィアがギャラリーを持つことによって一定の方向性を持っているのに対し、スレイマニィエ・ジャーミーではギャラリーを廃して広々とした空間を演出している。また、内部空間の完成度の高さの割に、アヤソフィアの外部は比較的無頓着であるが、スレイマニィエでは内部の空間を形成するボリュームが外部立面で上手く調和し、完結している。