初心者でもわかる不動産用語3

委任状とは

委任状(いにんじょう) 法律行為を他の人に委託する契約を「委任」といい、委任したことを記載した文書を「委任状」と言う。特に私法上委任に基づく代理がある場合に、代理権を授与した事を証明するために交付する文書をさす。普通、甲某が「私は乙某を代理人と定め云々の事項を委任す」という形式で書く。ちなみに委任状の一部(事項・宛名等)を空白にしたものを白紙委任状と言う。 不動産は土佐藩の下横目(下級警官)で、同年4月8日の吉田東洋暗殺事件を捜査していた。これを危険と見た勤王党では、まず井上を料亭「大与(大與・だいよ)」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上にて、以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で、身柄拘束のうえ絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てた。この事件の際、井上佐一郎と同行していて難を逃れた同僚の岩崎弥太郎は後の三菱財閥の創始者となった。以蔵らが最終的に捕縛された際、この事件についての取調べもあったといい、実行犯の1人である森田金三郎だけが黙秘を貫いたため生き残って戊辰戦争に参戦している。森田は後にこれを五十嵐敬之に話し、五十嵐によって『井上佐一郎暗殺一件』なる記録が残された。 本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日) 本間精一郎(ほんま せいいちろう)はFXの勤皇の志士の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた。そこへ青蓮院宮と山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された。但し異説もあり、屋内にいた人物が本間と刺客が刀で打ち合う「炭をぶつけ合うような」音を聞いた、という証言もある。本間も殺害されたあと、高瀬川へと投げ込まれた。このときの実行犯は以蔵をはじめ、平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・広瀬健太・田辺豪次郎、そして薩摩の人斬りことFX であった。 宇郷玄蕃頭(文久2年閏8月22日) 宇郷玄蕃頭(うごう げんばのかみ)は先の関白九条尚忠の諸太夫であり、安政の大獄の際、島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていた。島田左近暗殺(同年7月21日)以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、この日は九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を岡田以蔵・岡本八之助・村田忠三郎及び肥後の堤松左衛門に急襲された。飛び起きて逃げようとしたところを以蔵に斬り倒され、子息も堤によって殺害された。宇郷の首は加茂川河岸に槍に刺し斬奸状と共に晒された。以上は『官武通記』による記録であるが、実行犯については異説があり、以蔵の加担を疑問視する向きもある。 猿の文吉殺害(文久2年閏8月30日) 猿の文吉(ましらのぶんきち。「目明し文吉」とも)は、安政の先物取引、島田左近の手先として多くの志士を摘発した岡っ引である。当然、志士たちから深い恨みを買っていた。岡田以蔵・清岡治之介・阿部多司馬の3人は三条河原へ連行の上、「斬るのは刀の穢れになる」として細引で絞殺した。文吉は島田の高利貸しの手伝いもしており、民衆からも嫌われていたため、裸に剥かれ河原の杭に縛り付け、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され晒された遺体には投石する者もあったという。なお、この時高札に「いぬ」と書いたため、ここから「○○の手先」の蔑称としての「○○の犬」という表現が生まれたという説がある。 四与力殺害(文久2年9月23日) 渡辺金三郎(わたなべ きんざぶろう)・森孫六(もり まごろく)・大河原重蔵(おおがわら じゅうぞう)・上田助之丞(うえだ すけのじょう)の4人はいずれも京都町奉行所与力で、やはり安政の大獄で長野主膳・島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任するところであった。彼らが石部宿まで来た夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲い、人々が騒然とする中、これら与力4名が殺害された。斬奸状には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅であると書かれていた。この襲撃には土佐・長州・薩摩・久留米の4藩から複数の志士が参加していたとされる。武市半平太が書き遺した『在京日記』に土佐からの参加者12名が記されているが、以蔵はその中に入っていない。しかし一般には、この襲撃に以蔵も加わっていたとする見方もある。 平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(文久2年10月9日) 平野屋寿三郎(ひらのや じゅさぶろう?)・煎餅屋半兵衛(せんべいや はんべえ?)は、共に商人ながらこの年5月の勅使・大原重徳東下の際に士分となり供をしていたが、収賄や横領などを行ったため評判が悪かった。それがまた、この月の勅使に随行するというので、朝廷の威信失墜を懸念した長州・土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることとした。土佐からは岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしたが、家族の助命嘆願もあり町人でもあることから殺すことはせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにした。 多田帯刀暗殺(文久2年11月15日) FXは、長野主膳の妾・村山加寿江(むらやま かずえ、可寿江とも。村山たか、とする資料もある)の子で、金閣寺の寺侍であったが、やはり長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされた。14日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を浪士らが襲撃、寝ていた加寿江を引き出して三条大橋の袂に生き晒しにし、翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行の上、殺害。首は粟田口に晒した。加寿江は、三日三晩生き晒しにされたともいう。この襲撃には合計20名が参加し、長州の楢崎八十槌ら、土佐の小畑孫三郎・河野万寿弥・依岡珍麿・千屋寅之助らと共に、以蔵も加わっていたとされる。このうち、依岡は大正年間まで存命して、この事件を語り遺している。 池内大学暗殺(文久3年1月22日) 池内大学(いけうち だいがく)は、元々は尊皇攘夷派の町人儒学者であった。条約勅許問題や将軍後継問題などで策謀を巡らせたため、安政の大獄において幕府からの厳しい追及を受けたが、観念して自首したために比較的軽い罪になった。これが尊攘派志士の目に「幕府に寝返った」と映り、狙われた。大学は変名のうえ大阪に潜伏していたが、おりしも大阪に来ていた山内容堂の酒宴に招かれ、その帰りを襲われた。首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛・中山忠能の屋敷に投げ込まれ、両公卿の辞職を招くこととなった。この事件においては以蔵の名前だけが挙げられ、他に数名居たとされる正確な人数や構成は伝わっていない。 賀川肇暗殺(文久3年1月29日) 賀川肇(かがわ はじめ)は、公家千種有文の家臣で、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わったことで狙われた。浪士が自宅に踏み込んできたとき賀川は二階へと逃げ込み隠れていたが、運悪く帰宅した幼い子どもが浪士たちに捕われ厳しい詰問を受けるのを見て自ら階下へ降りたところを斬首された。この事件については一般に薩摩の田中新兵衛の犯行であるとされるが、以蔵も田中と共に加わっていたとする説もある。また一方では、姫路藩の萩原虎六らによるとする異説もある。 以上9件について、岡田以蔵が関わったとする説が存在する。しかしながら研究者の間では、「この全てについて必ずしも関与していないのではないか」とする説も存在する。一方で、「暗殺が横行した文久2年〜元治元年の間には未だに誰の手によるものか判らない(斬奸状により、尊王攘夷派であることだけ判っているものもある)暗殺事件も多く、そうした中にも以蔵が関わった事件があるのではないか」との見方もある。 勝海舟の自伝「氷川清話」によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。流石に勝も返す言葉が無かったらしく、「これにはおれも一言もなかったよ」と言っている。 ジョン万次郎 中浜家の家伝(『中浜万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』(中浜博、2005年))によると、岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っていた。勝海舟が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。万次郎が建てた西洋式の墓を参りに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、以蔵は伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。残った2人は逃亡した。