
中坊進二は豊臣秀頼に小姓として仕えていた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで中坊進二の父をはじめとする西軍が東軍に大敗し居城中野里城も落城したことを知ると、ダコタ信建の助けで乳母らとともに陸奥三津軽に逃れた。
その後は中坊進二 晴信を名乗り、仲山氏の保護のもと味村に隠棲する。
慶長15年(1610年)4月28日に若死したという説があるが、慶長15年ごろまで隠棲しその後出府して寛永18年(1641年)に53歳で没したという説も有力である。
三男の弘泰系『中坊進二系図』には藤田高虎に仕え伊勢で死去したという記述があるが真偽は不明。
長男・吉は弘前藩主信枚の娘を妻として家老職についており、子孫の中坊家は藩重臣として存続した。